▲ディスクシステム資料



◆ディスクシステムのはじまりからおわり、そしてふっかつ


 1985年 ディスクシステム構想と開発

 当時、任天堂にはとある懸念があったそうです。
 ファミコンのカセットは値段が高い。この当時で5000円前後。子どものおもちゃとしては結構なお値段です。 今後うまく優良なソフトを開発し続けることができなければ、ユーザーには高価であることが 購入に二の足を踏ませる事になるかもしれない、という懸念が。

 そこで考えられたのが、ラインナップの幅を広げるためパズルのようなお手軽なソフトを安く販売できないか、というものでした。 カセットの中身は半導体チップを搭載した基盤です。 この半導体チップがたいそう高価であるため、カセットの価格高騰の原因となっていました。 このためカセットでゲームソフトを販売する限り、価格を下げることはできません。 これ以外の媒体でゲームを供給する必要がありました。

 最初に開発が始まったのは、ハドソンから提案されたICチップを搭載したカード型のソフトでした。 しかしICチップカード自体がそもそも高価なものであり、すぐに頓挫。 (ちなみにこのICカードが後のPCエンジンのHuカードに繋がったのかもしれません)

 代わりに採用されたのが、当時MSXに使用されていた磁気メディアであるクイックディスクでした。
クイックディスクはフロッピーディスクの簡易版のようなもので、フロッピーよりも安価に製造できるのが利点でした。

 その代わり、大きな欠点も抱えています。 クイックディスクはフロッピーと異なり記録内容をピンポイントで読みだすことができないため、 一部のデータだけを読み出す場合もディスク全体をスキャンする必要があります。 このためディスクの読み込み時間がとにかくかかります。
 なので当初はフロッピーディスクを採用することも検討されたらしいのですが、価格が高すぎるということで 妥協案としてクイックディスクにしたのだとか。


ディスクカードの構造。 薄い磁気フィルム。これにデータが渦巻き状に記録されています。


 さて、当時のロムカセットと比較してディスクシステムが優れる主な特徴は、
  1.データ容量がカセットよりもかなり大きい、
  2.ゲームを記録 (セーブ) できる、
  3.お店のディスクライターで書き換えでゲームを購入できる、
という3点。

 当時のカセットの容量は約250キロ (ビット) 程度。 対してディスクシステムは両面で1メガ (ビット) です。 しかもディスクを入れ替えられるという仕組み上、枚数を増やすこともできるため、実質無限大。 もっとも2枚組以上で発売されたソフトはありません。前後編に分けて発売したものはありますが…。 (任天堂非公認のゲームソフトでは2枚組のものが存在します)

 またデータ容量に余裕ができることにより、これまで容量不足であまり注視されてこなかった「音楽」も期待できると考えられ、 ディスクシステムでは新たな音源が1つ搭載されました。 これまでのファミコンの3和音(+ノイズ音)から、4和音(+ノイズ音)へパワーアップ。 しかも追加音源はファミコンの音色とは異なる、ディスクシステム独自の特徴的な音色です。

 ちなみに読み込んだデータをゲーム機本体に一時的に蓄えておくためのメモリ(バッファRAM)もディスクシステムは大きい。 RAMアダプタという名は伊達じゃない…!?  例えばザナックはカセットで発売(※海外)された際、カセットの容量自体は半導体の大容量化で問題はなかったが、 カセットから読み込んだゲームデータを置いておくためのゲーム機本体側のバッファRAMが ファミコン (NES) はディスクシステムよりも小さいため、 敵の爆発パターンなどいくつかの演出を削ってRAM容量を確保したそうです。


 そうして5月21日、任天堂はディスクシステムを11月に発売すると世間へ向けて発表するのでした。 具体的には単に新しいゲーム機を発売する、といったものではなく、 ユーザーと任天堂をネットーワークで繋いで情報を双方向でやり取りする手段の第一段階目としてディスクシステム発売する、 という事業展開の話だったようです。
 普及率の高いファミコンを用いてこれまでにないビジネスシステムを展開していくということで、関係者の間では大きな反響を呼んだようです。

Game Machine no.263に掲載された、 ディスクシステムの書き換え説明図
(クリックで拡大)

 1986年 ディスクシステム、発売

 1986年2月21日、ディスクシステム発売。 当初は1985年11月発売と発表されましたが急遽延期に。 ROMカートリッジの需要が急激に増加したため一旦ディスクシステムの展開を保留することにしたのが理由だそうです。
 さて、上で挙げたようにハード開発時、 ディスクシステムはパズルなどの手軽なソフトを供給する目的で開発されました。 しかし実際のところはカセットソフトを軽く上回るゲームが実現する、高性能な機械となっていました。
 当然のことながらソフトの開発チームはこの高い性能に着目。 これまでのカセットでは到底実現できなかったビッグタイトル『ゼルダの伝説』を いきなり一発目から開発してしまいました。
 大容量を生かした広大な地上に8つもの独自の地下迷宮。さらに クリア後は地下迷宮のマップを総入れ替えしてしまった裏ゼルダまで搭載。 またディスクシステムの追加音源も使用し、オープニングの重厚なメロディや鐘の音、 さらにボスキャラのいなななど新たな“音”も盛り込まれました。

 というわけで、お手軽なソフトどころかカセットでは作れない大作が誕生。 しかもお値段はカセットの半額程度。 つまりお手軽なソフトの販売も大作の制作も、どちらもディスクシステムで実現できてしまいます。 このためなのか、任天堂は今後のソフトはすべてディスクシステムで発売するとまで公言。
 そうして約2年近くもの間、任天堂はディスクシステムだけでソフトを供給し続けるのでした。



ディスクシステム発売時のニュース映像。


…を流すバラエティ番組『モニタリング』の映像。


 なおサードパーティ (任天堂以外のゲームソフト発売メーカー) からディスクシステム用ソフトが発売されたのは、 ディスクシステム発売から実に半年以上。 その理由が発売前にディスクシステムの仕様などをメーカーに公表しなかったのか (発売後に各メーカーが独自に開発を始めたのなら半年後になるのもわかる話)、 それとも当初はカセットよりも厳しい契約内容だったのかはわかりませんが…。
 ちなみにカセットの場合、各メーカーはゲームの制作・製造に制限が設けられていて、自由にゲームを販売することはできませんでした。 それに対し、ディスクシステムに関しては発売本数制限は無かったとされています。 (もっとも最初からなのか、もっと後の時代になってからなのかは不明ですが)
 このためか、バーガータイムはカセット版はナムコから発売されていましたが、後にディスクシステムへ移植された際には、 ナムコではなく本家であるデータイーストから発売されました。
(カセットの頃はデータイーストが年間発売本数に達していたのか、 あるいは単にファミコンのライセンスを取得していなかっただけなのか、 ともかく自社で発売できなかったようで、発売をナムコに委託していたようです)

 これまでに無い画期的なゲームの売り方、ディスクライター

 ディスクシステムを象徴するものといえば、ディスクライターでしょう。
 ディスクライターとは、お店に設置された大型のゲーム販売機です。 これにユーザーが手持ちのディスクカードを持っていくことで、その中身を新しいゲームに入れ替えることができるという機械でした。

 これは画期的なソフトの販売方法でした。書き換えの価格はわずか500円。 それまでゲームソフトは、ソフトそのものをお店で「買う」のが当たり前でしたが、 ディスクライターは言わば500円でゲームを「交換」するというようなもの。 高いお金を出してパッケージ丸ごと買う必要が無いため、お財布に大変優しい。 消費税導入後(3%)も、書き換え料金は500円のままでした。税込500円。

 ちなみにゲームソフトそのものの料金は500円ですが、一部の取扱説明書は別売りであり、ソフト代500円に加えさらに100円が必要でした。 ゼルダの伝説や謎の村雨城にリンクの冒険、メトロイドやにきね子IIなど、厚手で上等な説明書が用意されていたゲームがその対象でした。

 この画期的なディスクライターによる書き換え販売。 サービス開始に至るまではやはり紆余曲折あったようです。
 当然のようにおもちゃ問屋は猛反対。 ディスクライターで販売するということは、ゲームデータだけの販売となり実際の品物 (パッケージされたゲーム) が動くわけではありません。 ユーザーとお店(任天堂)との直接取引となり、中間流通の問屋には一切お金が入りませんから。

 逆にユーザーと販売店にはメリットがありました。
 まずユーザー側に限れば、なんといってもその価格。 書き換え料金はパッケージゲームでは考えられない、500円(+説明書代100円が必要な場合あり)という破格の安値。
 そしてユーザー・販売店両方でのメリットは、ソフトの在庫に悩まされずにすむという点です。 お店は売れるか売れないか分からない在庫を抱えずに済みますし、ユーザーは在庫切れで欲しいソフトが買えない、 という事態を回避できます。

 この「書き換え」という販売方法は、ゲームがヒットする (すごく売れる) 可能性が問屋の販売数予想に左右されず ユーザー側にゆだねられていたというのが珍しいところでしょうか。

「パッケージのソフトだってたくさんのユーザーが買えばヒットするじゃん」

 いやもちろんそうなんですが…。 実際のところ、パッケージソフトには「生産数」という問題があり、 たとえ需要があったとしても、そもそも作った本数がそれよりも少なければどうしようもありません。
 基本的に最初の生産数は、発売前におもちゃ問屋からメーカー側にどのくらい注文が入るかで決定されているそうです。 なので発売後すぐ売り切れてしまったソフトは実際の販売数よりももっと沢山売れた可能性があったわけですね。

「あれ?売り切れるほど人気が出たら、当然再生産するでしょ? で、それが売れるでしょ?」

 実の所、そんなに簡単な話でもなかったようです。 ファミコンのカセットは生産に結構時間がかかったそうで、再注文を掛けてからお店に並ぶまでにも当然かなりの時間が経過してしまいます。 カセットの心臓部である半導体チップ (ROM) が慢性的に不足気味だったのが大きな要因のようです。 またカセットの製造自体にも時間がかかったらしいです (半導体から製造されるICチップの量を定めている半導体規制というものが存在していたり、 アメリカ側が大量の半導体を使用していたり、などの事情があったそうな) (ちなみに後のプレイステーションなどのCD-ROMソフトの場合はカーボン板にプレスするだけなのですぐ生産でき、再納入も早かったのだとか)
 なので売り切れたからといって再注文をかけ、 生産を行ったとしても、それがお店に再入荷するのはかなり後の事。
(Webサイト「ポン吉のゲームコーナー」さんによれば、 発注から納品までが1ヶ月、しかも生産が間に合わないのか一度に全部は納品されず、1ヶ月おきの分納になることも多かったらしいです)
 時間がかかりすぎるので、その頃には多くのソフトは人気が落ちているでしょう。 下手するとお店は大量に在庫を抱えることになってしまいます。

 さらに再生産する場合にも、ある程度まとまった数を任天堂に発注する必要があるので 資金力に余裕のないメーカーは問屋から注文が上がっても発注自体が出せない… 発注しても時期を逃せば大量に在庫を抱えてしまうこととなるので 下手すればそれが元でメーカー廃業の危機……なんてこともあったらしいです。

 なのでそこそこ人気はあったはずなのに生産本数が少ないというレアソフトなんかはこういった事情も関係していそうです。 昔のゲーム雑誌にはカセットソフトの再出荷リストが載っていますが、基本的に大手メーカーのゲームが中心でしたし。
 小さいメーカーのソフトでも人気があるものはもちろんありますから、 もしたくさん作ってさえいたら実際には大ヒットしていたものもあるかも!? そして続編も作られて…

 妄想はともかく。
 長くなりましたが、ディスクライターの導入により このような生産の問題がクリアされるため、ユーザー側も売り切れで買えない、ということがなく、 また販売店も不安定な在庫を抱えなくても良い、という画期的な販売方法となるのでした。
 …細かいことを言えば、ディスクライターですべてのディスクシステムのソフトが書き換え購入できたわけではなく、 またディスクライターのソフトラインナップは時期により変化していました。 ソフトは全部で200本程度存在しますが、うち書き換え販売が行われていたのは184本。 このうちお店のディスクライターに一度にラインナップされるのは 新作ソフトと定番ソフト(コンスタントに売れている息の長いソフト)を合わせた、 おおよそ60タイトルでした。

 さて、ここまでメリットを挙げましたが、ディスクライターによる書き換え販売はイイコトばかりというわけでもありませんでした。 もっともそれはユーザー側ではなくメーカー側から見たデメリットです。
 書き換え料金は基本的に500円。とにかく値段が安い。ユーザーからしたらとてもありがたい話なんですが、 この500円を販売店・任天堂・メーカーで分け合うので、メーカー側としてはあまりうまみがありません。
 ディスクシステムの衰退はカセットの技術が向上したことが主な要因とされますが、 そもそも「ディスクシステムでは儲からない」という身も蓋もない事情も、 メーカー側からディスクシステム離れを引き起こした無視できない要因だったそうです。
 メーカーが年間に発売できるファミコンカセットのソフトの本数には 任天堂から制限が設けられており、自由に作って売ることはできませんでしたが、 それでもディスクカードの書き換え販売を行うよりはカセットのほうが儲けが大きかったそうです。

 メーカー側の利益を増やすため、後に任天堂は書き換えソフトの新作を600円に上げましたが、 メーカーの関心を引くには至らなかったようです。  

 なお販売店側にもデメリットは一応あったそうです。 ディスクライターの設置のための面積が必要であることと、書き換えのためにディスクライター操作が必要であるという店員の負担。


ゲーム買換え販売機・ディスクライター。
写真を見ると書き換え対象は9タイトルだけのように見えますが、 これはあくまで正面パネルの演出。
ディスクカードカレンダー(書き換えタイトル一覧表)を見るに、 実際には常時60本程度が用意されていた模様。
書き換え時には希望するゲームデータが入ったソフトパックを ディスクライター本体にセットして書き換えを行う。
なおソフトパックの到着日は 地域によりまちまちであるため、 書き換え開始日よりも早く到着する店もあれば 遅れてしまう店もあったとのこと。






ディスクライターの中身。写真右側の正面パネル部が書き換え機の本体で、ディスクライター内部の中央に鎮座するレコードみたいな機械は実は換気用のモーターらしい。



おまけ。ファミコンソフトのお金の配分。
任天堂、メーカー、おもちゃ問屋、販売店でそれぞれお金を分け合います。 この配分の比率はすべてのソフトで一定だったというわけではなく、メーカー、生産本数、時期によっていろいろ変化していたようです。

とある定価約6000円の大量生産されたファミコンソフトを例に挙げると、 任天堂の取り分がロイヤリティで2000円近く。販売店がおもちゃ問屋から仕入れる価格が約3600円程度とのことです。
なおゲームソフトの製造は一部の優遇メーカーを除いてみんな任天堂が行う仕組みだったため、 製造委託費も別途必要だったとの話も…。

(さらに余談を。とある量販店で2000年前半当時、PS2後期型の販売価格が19800円でした。しかしその仕入れ値はなんと19600円。 約2万円もする高いモノなのにお店側の利益はわずか200円!…儲からないなあ)

Webサイト「ポン吉のゲームコーナー」さんの一コーナーに、ディスクシステムのお金と契約のお話が掲載されていました。 書き換え販売の場合は、お店の取り分は100円。 パッケージの場合、任天堂が生産したディスクカード(原価100円程度)をメーカーに700〜900円で渡し、メーカーは60円程度かけてパッケージして、 一次問屋へ卸す。卸値は市場価格の55%だと仮定すると1430円なので、この場合のメーカーの取り分は600円程度、とのことでした。
ちなみにメーカーが製作したゲームなのに、その著作権は任天堂と共有する契約だったそうで。ディスクシステムのOS上で動作するためという理由なのだとか。

 ディスクシステムの弱点、違法コピー

 クイックディスクをベースに開発されたディスクシステムで大きな問題となったのが、コピーへの対策。
 クイックディスクのコピーはカセットの複製よりも簡単であったため、 ディスクシステムの開発時には容易にコピーされないような仕組みが盛り込まれました。

 それでも発売後すぐに仕組みを解析され、多数のコピー機材・コピーソフトが登場することとなってしまいます。 任天堂側も対策をしたディスクシステム本体を開発しますが、 コピー機材側もその新しい本体にまた対応してしまいました。

 デパートや大手玩具店といった正規の任天堂製品を扱う販売店以外のお店では、 ディスクシステム用のコピー機材を置くところも少なくなかったようです。 (ファミコン・パソコン等の中古ソフトを扱うお店、1990年代に入るまではダーティな雰囲気のところが多かったですよね)

 違法コピーでは当然ながら任天堂やソフトメーカーにお金は入りません。
ディスクシステムの衰退の大きな要因は 先に挙げたカセットの性能の向上やソフトメーカー側の利益が薄いという点にあるのは間違いないでしょうが、 違法コピーもディスクシステムの正当な販売に影を落とし、衰退の一因となった可能性は否定できないでしょう。
 もしディスクシステムのソフトが正当に販売されてメーカーに安定してお金が入っていたのなら、 大作は無理としてもお手軽なソフトの供給媒体として もうしばらく残った可能性だってあったかも…

左はファミコンコーナー開設用の機材リースの案内。陳列用什器の
提供のほか、堂々とコピー機材の案内が。右は業務用コピー機の一つ。
  (それぞれクリックで拡大)

このほか個人向けにもハッカーインターナショナルやアイ・ツー、
昭和通商、ソーシンにエース商会等々、さまざまな企業からコピー用の機材が
多数登場。

 ゲームではないソフト

 ファミコンのソフトには『けいさんゲーム』のような、ゲーム娯楽以外の目的のソフトが存在していますが、 ディスクシステムにもこのようなソフトがいくらか登場しています。
 手芸の補助用ソフト『アイアムアティーチャー』シリーズ。 英語学習を兼ねた『マイケルEnglish大冒険』。 さらにゲーム内での学習だけで完結させず、本やオーディオテープといった他メディアも組み合わせたメディアミックスの手法を取り入れた サンソフトの『知能ゲーム』シリーズ (アディアンの杖、スーパーボーイアラン、地底大陸オルドーラ) (なお同様の手法を用いたイマジニアの『銀河伝承』も名目上は学習要素を謳っていましたが、実際の所は純粋なゲームです)。
 さらにその延長線上には国税庁主導で開発され、税金の展覧会でお披露目された『惑星アトン外伝』。
 ほか『タロット占い』『サンタクロースの宝箱』といった、いわゆるゲームとは主旨が異なるような特殊なソフトも。

 こういったソフトが作られたのは、テレビゲームは子供に悪影響を与えるものという認識を逆手にとって、 「子供のためになるソフト」であれば手に取ってもらいやすいだろう、 という発想があったのかもしれませんね。

 ちなみに販路も例外的なものがあり、通常のおもちゃ屋以外のルートで販売されたソフトもありました。 『知能ゲームシリーズ』は一般のおもちゃ屋のほか、郵便局でも取り扱いがありました。ハイテクゆうパックという 通信販売の対象にこのシリーズが含まれていました。
 『アイアムティーチャー』に至っては、おもちゃ屋での販売は無く、手芸関連のお店での取り扱いとされています。 パッケージにバーコードが無いため、一般の玩具流通で販売していた可能性はかなり低そうです…。

『でる順・偏差値アップシリーズ』第1作目。
この後、地理・歴史・算数に理科、さらにはフランス語やドイツ語まで、 次々とシリーズ化する予定だった。 しかしいずれも実現せず、これ1作で終了。

 1987年 ネットワーク構想の実験とディスクファックス&青いディスクカード

 任天堂は昔からファミコンを通信ネットワークのプラットフォームとして利用することを考えており、 ディスクシステム発売後の1986年秋ごろに、ファミコン・ディスクシステムと合体させて使う周辺機器『ディスクファックス』の 発売が予定されておりました。

 ただ開発が難航していたのか、あるいは世間に受け入れられる土壌がないと判断されたのか、 その時期になってもこの周辺機器が発売されることはありませんでした。
 その後、代わりに登場したのが、店頭に設置された巨大な機械、その名も『ディスクファックス』でした。 どちらも名前はディスクファックス。ややこしいですね…。
 何せ家庭で電話線を繋いでデータ通信を行うというのはこれまでに無い試み (※インターネットの前身であるパソコン通信はありましたが、ごく限られた一部の人が利用する程度のもので一般向けではありませんでした) 。なのでこの前代未聞の機器をいきなりお茶の間に投入したりはせず、まずは店頭に設置して運用することにしたようです。

 このディスクファックスに対応するソフトは、ゴルフJAPANコースをはじめとする青いディスクカードのソフトたちです。 ユーザーはこの青ソフトをプレイしてスコアを記録。 そして店頭に設置されたディスクファックスへこのディスクカードを持ち込むことで、 カードに記録されたゲームのスコアと自分の名前・住所などを任天堂へ送信。 これにより全国のユーザーとスコアを競うという前代未聞の大規模な全国大会が実現。 これのディスクファックスを用いた試みは、翌1988年まで、計5回行われました。
 最初に行われた『ゴルフJAPANコース』大会の参加人数はなんと80409人。次の『ゴルフUSコース』も それに迫る77820人。大成功といえるでしょう。
 ちなみにその後の『中山美穂のトキメキハイスクール』『F1レース』『3Dホットラリー』の人数は未確認。 『トキメキハイスクール』はスコアを競うタイプではなく、ゲームのヒントや任天堂からのお知らせの取得、そしてプレゼントの応募用に使われました。 応募人数は公表されていない(ハズ)なので不明。
 F1レースは4コースがそれぞれ個別に応募できるようになりました。一人が複数のコースに応募している可能性はあるものの、 おおよそ10〜12万通程度と予想。判明しているのは1,3,4コースの合計の87651人。各傾向から第2コースは1〜3万人程度と予想したのでこの数字。 3Dホットラリーも現在分かっているのが3コース中のいずれかで約21000人。 そしてコースごとの応募比率が約25%、45%、30%なので、ここから予測して大雑把に約4〜8万人くらいかな。


 この実験を基に、ファミコンを電話回線につないで家庭のネットワーク機として活用するための 通信アダプタの開発がいよいよ始まりました。 この家庭用通信機器ではディスクファックスという名前はやめたようです。ややこしいですし。 データの書き込み (記録) が可能であるディスクシステムを中核に置き、ネットワークアダプタを介して ゲームに限らずさまざまなデータ通信を行う仕組みが予定されていたようです。
(なお開発開始は1987年の夏だそうなので、ゴルフJAPANコースやUSコースの結果を見て早くも取り掛かったのでしょう)

 もっとも実際に完成したこの通信システムが活用されたのは、 証券取引と、おもちゃ販売店と結成したゲームの各種情報をやり取りするためのスーパーマリオクラブくらいのようです。 実際にゲームで使用されることはありませんでした。 ゲームは山内社長が開発を指示したという囲碁のソフトをはじめとして数本程度は試作されたらしいですが、いずれも発売されず。
 ちなみに証券取引の道具としての通信アダプタは長期に渡って活躍したようです。 この頃はバブル経済期で株価が値上りし続けていた時期です。自宅で常に株価が確認できるこのシステムは便利だったそうです。

左は最初の構想だった、家庭用ディスクファックスの予告。
右は実際に登場した、店頭用ディスクファックス。

ディスクファックス(店頭用)の画期的だった点は、単にユーザー側からデータを送るという一方通行ではなく、 同時に任天堂側からのメッセージをディスクカードに記録するという双方向の通信が行われていたところ。




ディスクファックス設置店の看板・ポスター。
Wiifit64さんにご提供頂きました!いつも貴重な資料をありがとうございます。





ディスクファックスの実験を経て 後に実用化された通信システム。
こちらは『野村のファミコン・トレード』の スタート前の実験映像。
株の売買や経済ニュースが読める。

 1989年 ディスクシステムの限界が発売本数に現れた年

 ディスクシステムの利点は、 データ容量が従来のロムカセットよりもかなり多く、ゲームを記録 (セーブ) でき、さらにパッケージを買わずともデータの書き換えだけで新たなゲームソフトが格安で購入できる、 という三点です。しかし早くもディスクシステム発売の翌1987年にはカセット側の性能がディスクシステムに追いついてしまいました。
 半導体の性能が上がり、大容量チップの値段も低下。これによりディスクカードの容量を超えるカセットが登場。
 そしてバッテリーバックアップ機能を搭載するファミコンカセットも同じく1987年に登場。しかもディスクと違って読み込み書き込みも一瞬。 これでディスクシステムの利点は書き換えにより安くソフトが購入できる、という一点になってしまいました。
 さらに身も蓋もない現実を挙げれば、ディスクシステムよりもカセットでソフトを供給する方がメーカーの利益が大きい、というのが何より大きな要因だったのかも。

 1987年は約70本、翌1988年は50本以上のディスクシステムソフトが発売されましたが、 1989年には20本と一気に勢いは衰えてしまいました。

 1990年 ディスクシステムの復権を狙った任天堂の策

 ロムカセットの大容量化、さらにバッテリーバックアップの搭載によってゲームデータのセーブが可能になったことで ディスクシステムの利点は薄まってしまい、すっかり勢いがなくなっていた1990年。 しかも年末にはスーパーファミコンの発売を控えていました。
 そんな状況に置かれたこの年、任天堂はディスクシステムの再起を図ろうといろいろな動きを見せました。

「現在は大容量ロムカセットを生かした大作がソフトの主流となっている。なのでディスクシステムは手軽にゲームを遊ぶためのハードと位置付ている」 (任天堂 広報 1990年6月)

 ディスクシステムが未だにカセットに勝っている利点は2つ。 1つは世界的な半導体需要により価格が高騰しているロムカセットに対して、その10分の1以下となるわずか500円(書き換え購入の場合)でゲームが買えること。 パッケージ販売の場合でもほとんどのソフトは3000円未満です。
 そして2つめは書き換え販売の場合、物品ではなくデジタルデータの供給であるため、品切れが発生しないことです。

 まずはナムコ・ハドソンの旧作カセットがディスクシステムの書き換え専用ソフトとして移植されました。
この頃の中古ソフト市場は未成熟で販売店の在庫はユーザーからの買い取りに頼っていた状況。 店ごとに在庫の状況はバラバラで、欲しいソフトは手に入り難い状態でした。
 また仮に中古ではなく、新品カセットとして再販しようにもこの頃は慢性的な半導体不足に陥っており、カセットの価格はかなり高騰していました。 わざわざ大きな売り上げが期待できない過去のソフトを再販するために半導体のカセットを使うのは二の足を踏む状況です (※もちろん再販されるカセットソフトもありました。その大半は大手メーカーの有名なソフトでしたから、再販でも一定の売り上げが期待できたのでしょう)
 書き換えによるデータでの販売となるディスクシステムはまさにこの状況にうってつけ。データ販売なので当然 品切れの心配も価格の高騰もありません。

 ちなみにファミコンソフトを販売するメーカーは沢山存在しているのに、なぜ選ばれたのがナムコとハドソンだったのでしょうか。
 実はこの頃、任天堂は両者との仲が悪化していた (※右の欄外参照) 頃で、その修復を試みる一環でもあったようです。 任天堂はスーパーファミコン本体の発売を目前に控えていましたし、 この両メーカーのソフトをスーパーファミコンにも供給して欲しいという目論みがあったことは想像に難くありません。
 幸いにして関係修復が叶ったようで、その後スーパーファミコンでナムコ・ハドソンのソフトがたくさん発売されています。


 さて。手軽なゲームを遊ぶためのハード、という任天堂の計画に則り、お手軽に遊べる新作ソフトも製作されました。 6月にテトリスの作者 アレクセイ・バジトノフ氏の新作パズルゲーム『ナイトムーブ』を発売。 同年9月には同じくテーブルゲーム系ソフト『バックギャモン』もリリース。
 また、この活性化策の一環であるかは不明ですが、 この年、ゲーム専門誌『ファミリーコンピュータマガジン』が読者からディスクシステムソフトのゲームアイデアを募集。 ファミマガディスクシリーズと銘打ってこの年から実に約2年に渡り6本の新作ソフトを発売しました。
(任天堂のゲーム機とソフトを中心に扱う専門誌『ファミマガ』。 この発売元である徳間書店は任天堂から発売されるソフトの説明書の製作も行っていました。 任天堂のパートナー的な存在である徳間書店なだけに、 任天堂からディスクシステムの活性化につながる企画を考えてほしいとオファーを受けていた可能性は高いのではないか、 と個人的には思っています。 何せわざわざ下火になっていたディスクシステムの新作ソフトのアイデアを募集し、ソフトとして発売する、なんてことをするくらいですから。 実際、この年以降、移植ではない完全新作を発売したメーカーは任天堂と徳間書店だけです)

 このほか、サウンドノベルの開発も企画され、糸井重里氏(の会社APE)や 有名な作家、クリエイターなど幾人にもオファーを出していたそうです。 当時の噂ではいとうせいこう氏の名も挙がっていたのだとか。
 しかし結局、このサウンドノベルの企画は中止になったようです。 スーパーファミコンの発売直前の頃ですし、やはり新しいハードのほうに注力したのかも。
 ちなみに翌年、任天堂からアドベンチャーソフトの『タイム・ツイスト』が発売されています。 もしかしてサウンドノベルの企画の名残なのかも?

ちなみにこの活性化の企画と関連しそうな出来事が、 1990年6月に行われていたゴールデンディスクカードの1つである「ゴルフスペシャルコース」の再生産
何らかの催し物のために任天堂が提供したものと思われます。…案外自社の何かのイベント用かもしれませんが。 使用目的は不明ですが、時期が時期だけにディスクシステムを盛り立てようとする一連の流れのひとつなのかもしれません。

ファミコン必勝本1990年5月4日号の記事



こちらもファミコン必勝本1990年5月4日号


※…任天堂とナムコ・ハドソンとの仲の悪化

本題から外れますので欄外であるコチラで簡単に解説。
ファミコンのカセットの発売・生産数は任天堂により厳しく管理されており、年間に発売できる本数が制限されていました。 最大5本だったらしいです。カセットの生産も任天堂が直接行うという契約内容であり、各社が自身で生産を行うこともできませんでした。 アタリショックの二の舞を防ぐ目的で、このような厳しい処置を行っていたそうです。

アタリショック…1980年前半、アメリカでアタリ社のゲーム機が大ヒット。この波に乗って各メーカーは ゲームの出来栄えを無視して大量にソフトを発売。これにより質の悪いゲームが大量に出回ることになり、 ユーザーのゲーム離れを引き起こす。そして紆余曲折の後、最終的には市場を崩壊へと導くことに。

この枠から外れ、発売本数に制限がなく、カセットの生産も自社で行え、またライセンス料も安い、 といった権利を与えられていたのが、 最初はナムコ・ハドソンを含む6社でした (後にメーカーが入れ替わり7社に拡大したようです)。
しかし後に任天堂はナムコ・ハドソンに対し、ライセンス更新時に優遇措置を取りやめてしまいました。考えられるその理由は…

ナムコ
・ライセンスを得るよりも前に勝手にファミコンの解析をしてゲームを開発していたことが 任天堂の山内社長の不興を買っていたらしい。
・販売本数の制限やライセンス料などの問題でソフトを発売できないメーカーが、販売本数に制限のないナムコに委託してゲームを発売していた。 ライセンスの抜け道を利用した形になるわけなので、当然任天堂は眉をひそめていたでしょう。
 この後ナムコは、任天堂の生産制限が独占禁止法に当たるとして訴訟を起こしています。

ハドソン
NECとともにPCエンジンを開発し、ソフト供給の中心メーカーに。
任天堂からすれば、ライバル機となりえるゲーム機を開発し、 あまつさえソフトも大量に供給するハドソンの行動を裏切り行為と判断してもおかしくはないでしょう。

 1991年 新作ソフトの書き換え料金が600円に

 ディスクシステムの書き換え料金は500円。 この500円をメーカーやディスクライター設置店と分け合うわけですから メーカー側からすると儲かりません。 価格の高いカセットのほうが当然利益も大きい。 既に技術面でもディスクシステムの利点は少ないため、 もはやディスクシステムでゲームを開発するメーカーはほぼ皆無。ゲームソフトはほとんどカセットで供給されていました。
 ディスクシステムを活用したい任天堂は メーカー側になんとかディスクシステムでも新作を作ってもらおうと、1991年8月より新作の書き換え料金を600円(税込)に引き上げました。

 しかし。いかんせんこの料金では安いのか、 そもそも容量的にディスクカードでのゲーム制作が難しいのか、 例外を除き600円になっても任天堂以外のメーカーから新たに新作が発売されることはありませんでした。
 600円になってからディスクシステムのゲームを発売したのは任天堂以外には徳間書店のみです。 しかしこれは600円だからゲームを製作したわけではないでしょう。 これ以前にユーザーからゲームのアイデアを募集しており そのゲーム化が実現したのがこれ以降の時期であったというだけのことかもしれません)


ファミリーコンピュータマガジン1991年9月6日号より。 今後の新作ソフトの書き換え料金が600円になるというお知らせ。
 ちなみにスーパーファミコン発売後となる1992年の8月に開催された任天堂の山内社長の講演会で 「年末から年始にかけて任天堂ではファミコンとゲームボーイのソフトに力を入れる」との話がありました。
…けれどもディスクシステムのソフトは任天堂からは発売されず。あくまでカセットの話だったようです。 むしろ、スーパーマリオUSA(元は夢工場ドキドキパニック)のようなディスクシステムからの移植がリリースされたくらい。 ディスクシステムの活用には任天堂自身も苦心していたようです。

 1993年 店頭のディスクライターの引き上げ

 1992年12月に、最後のディスクシステムの新作となった『ファミマガディスクvol.6 じゃんけんディスク城』が 書き換え専用ソフトとして発売されました。
 しかしその存在はすっかり下火となっているディスクシステム。時代はRPG全盛期の頃。 非常に残念ですが、今さらディスクシステムの書き換え専用ソフトとしてパズルゲームを発売してもほとんど注目されなかったことが容易に想像できてしまいます。
(そもそも発売前、ゲーム専門誌の新作ソフト発売予定表等にも ファミマガ以外は最初から載せていなかったようです。 既にゲーム専門誌にすら相手にされていなかったとはなんて不憫な…)

 そしてお店に置いていても売上に繋がらないディスクライター。店としては売り場の面積を割いてまで設置し続けることによるメリットがほぼありません。 任天堂側としても全国にこれがあることでメンテナンス費も馬鹿にはならなかったことでしょう。
 そんな時代の流れからか、ついに全国のディスクライターの引き上げが決まりました。 1993年2月中旬ごろより撤去がはじまり、3月中には撤去が完了したそうです。

 ただしゲームの書き換え自体をやめてしまったわけではありません。 ディスクライター撤去後も、任天堂の本社・支社・営業所にて引き続き書き換え販売を継続していました。 ディスクカードを任天堂へ送ることで書き換えてもらうという方法でした。ディスクカードを直接持ち込んでもよかったそうですが、 近隣に住んでいないと難しかったでしょう。
 しかしわざわざディスクカードを任天堂に送って書き換えてもらったユーザーが果たしてどの程度いたことでしょうか。 ディスクシステムの象徴たるディスクライターの姿が店頭から消えたことで、 実質的にディスクシステムは終了を迎えることとなりました。

ファミコン通信1993年3月5日号より。
ディスクライター撤去と書き換えサービスは
任天堂側で直接行うことのお知らせ。

 2003年 書き換えサービス自体の終了

 店頭のディスクライター引き上げから10年。 任天堂の本社・支社で行っていたディスクカードの書き換えですが、 2003年9月30日到着分を最後に終了となりました。
 終了直前にはこれを惜しむユーザーより全国からディスクカードの書換申し込みが殺到したようで、 書き換え作業そのものは締切から1ヶ月経過した10月30日もまだ行われていたことが確認できています。 (ディスクカード内に記録されている書換日が10月30日付のものを複数確認しています)

終了のお知らせ (クリックで全体を表示)

 2007年 そして本体の修理サポートが終了

 ゲームソフトの書き換えは2003年に終了しましたが、実はディスクドライブの修理はまだ行われておりました。 しかし2007年10月31日にその修理の受付も終了に。 なおこのとき終了となったのはディスクシステムだけではありませんでした。 ファミコン、スーパーファミコン、Nintendo64等のいくつかの古いハードもまとめて終了となりました。
 なお部品に関しては、修理サポート終了後も在庫が残っている限りは 問い合わせてきたユーザーへ販売していたとの話もあるようです。

 ディスクシステムソフトの復活?

 ディスクシステムの書き換え・サポート終了に伴い、 本体やディスクカードが壊れた場合は一切遊べなくなったのかといえば 実はそうでもありません。一部のソフトに限りますが、次のような手段で移植が実現しています。
ゲームボーイアドバンス『ファミコンミニ ディスクシステムセレクション』、 Wii、Switch、3DS等のダウンロード販売『バーチャルコンソール』、 そしてちっちゃいファミコン『ニンテンドークラシックミニ』

 余談ですが、任天堂以外の会社からファミコンやその他のゲーム機の互換ハードウェアが発売されています。 ところがディスクシステム用の互換機はまだ存在していません (2019年現在)。 基盤端子から直接データをやり取りできるカセットと異なり、 ディスクカード内の磁気ディスクを回転させてデータを読み取るための駆動部が必要であるという仕組み上、 やはり手間なのでしょうか。さらに磁気ディスクであることから、 ゲームデータが消滅・消耗している可能性も。 ゲームが遊べない可能性がカセットよりも高いことを考えると、やはり互換機の制作には二の足を踏むのかな…



任天堂 ファミコンミニ 公式ページより
 バーチャルコンソール対応タイトルは少しずつ増えているとはいえ、それほど多くはありません。 このようなフロッピーディスクタイプのゲームソフトとしてはPC各種やMSXなどと比べても販売数が飛び抜けて多かったディスクカード。 このため30年以上経過した現在も現存数は多いようですので、 実際のディスクカードを生かして遊ぶハードウェアが登場してくれると嬉しいところなんですが。


◆参考資料
ゲーム専門誌(ファミリーコンピュータMagazine・ファミコン通信・ファミコン必勝本・マル勝ファミコン・Beep・ユーゲー・GAMEgene 等)、
任天堂や各ゲームメーカーのホームページ、 コペル21、ゲームマシン、日本経済新聞、東洋経済、日経エレクトロニクス、など


◆Web上の関連リンク
ディスクシステムとは?(任天堂)
書き換えサービス終了のお知らせ(任天堂)
ニンテンドークラシックミニ(任天堂)


▲ディスクシステム資料